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2016.05.02

天牛書店ポストカードの通販を開始しました。

2012.09.25

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2011.11.05

Googleマップに天神橋店内写真が公開されました

2011.10.13

HPリニューアルと送料形態変更のお知らせ

2011.10.12

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 歳月は経ってしまうものだと、近頃とみに身にしみて思う。

天牛書店が創業百年を迎えると聞いて少なからずの感慨をおぼえるのは、私自身と店主・天牛高志との出会いから始まる歴史が、お互いの先代を含めて、様々な思い出に満ちているからにほかならない。

 五年前に没した私の父は、その昔、池田師範に学び、卒後は旧制住吉中学で教鞭を取りながら、昭和二十年三月の大空襲で焼け出されるまで大阪で青年時代を過ごすのだが、当時、文化人なら誰もが大阪古本大学とまで呼んだ〃テンギュウ〃の常連であった。

 その頃、天牛といえば古本の代名詞、先代の新一郎が明治四〇年に始めた露店の古本屋が大きく成長をとげ、日本橋にケタ外れの店舗を構えていた。当時、そこは古本街として知られ、六〇店舗ほどが軒を連ねていたが、中でも道頓堀界隈を中心に七軒の支店をもつ天牛は最も有名であった。

 古本に正規の値段を付けたのは、天牛新一郎が最初といわれる。それまでは骨董品と同様、値段はあってないようなもの。客の顔をみて決めていたそれを撤廃し、正札をつけて商いをすることは、当時としては画期的だった。やはり常連であった作家、織田作之助はその著『夫婦善哉』の中で、天牛書店の二階広間でひらかれた素義大会のもようを書いているし、自分の本を売りに来る客がいたらそれを取っておいてくれと店主に頼み、後でそれらにサインをして贈呈本にしたというエピソードも残している。“高く買い安く売る”をモットーにした正札商いは、律義な店主の人柄とマッチして、絶大な信用と人気を得ていた。いまの書店からは信じられない話だが、店の天井裏までお客がひしめいて、押すな押すなで下敷きになる者まで出る繁盛ぶり、子供でも通り抜けるのがむずかしいほどだったという。夜十一時までの営業だったが、開けてさえいればいくらでも客が入ったというから、いかに人がよく本を読んだ時代であったかが窺い知れる。

 私の父も、そんな時代の天牛を知っていたから、戦後二十余年が経ち、息子が海外への旅に出て、英国の首都ロンドンで偶然、古書の天牛の孫と出会い、以降親しくつき合うようになったことを喜ばしい奇遇とみていた。ヴィクトリア駅のコインロッカーの開け方がわからずに困っていた私のそばに、たまたま日本人らしい男がいて、どうやったら開くんや、と尋ねたのがきっかけだった。

 話はいきなり戦後に飛んでしまったが、先代はともに苦難を共有していて、つまり、太平洋戦争末期の大空襲のおかげで、父は大阪を去って兵庫の田舎へ、天牛新一郎は焼け野原となった街から堺市へと逃がれていく。ために、いったんは終焉を迎えた天牛書店だが、戦後の昭和二十一年、難波新地に小さな店を再興する。以来、店舗を移転しながら商いは順調に伸び、高志の高校時代、担任の先生と衝突して親が呼び出しを受けたときも、祖父は、仕事が忙しくて行けません、と断った。それがさらなる軋轢を生み、ついに東京へ転校を余儀なくされるのだが、それが高志にとっては正解で、自由な気風の学園でノビノビと育ち、後のロンドン留学へとつながっていく。私もまた、進学する予定の地元の高校で教師をしていた父の元を離れ、高校時代を姫路で過ごすことになるのだが、そのことが後に海外の旅へとつながっていることを思えば、やはり二世代にわたって不思議な縁があったというべきだろう。

 私と天牛高志の違いは、ただ家業の跡を継ぐかどうかの問題で、義務の有る無しであった。ロンドンからさらにアメリカの大学へ留学する希望をもっていた高志は、祖母の病を理由に帰国を促され、以降は多忙な母親の説得を受け入れて、家業を手伝う定めとなる。むろん、不本意な選択だった、というのも、みずからの志しが半ばで頓挫したことに加えて、まだ元気で店を仕切る祖父・新一郎の名があまりに大きく、人は何かといえばその立派さを称え、孫の高志にとっては、みずからの存在が価値を認められない、目の上のタンコブ的人物とうつっていた。ただ、そういう状況のなかでも、そこは大阪の商い人である、やるからには何かで一番を目指そうと、アメリカ村の元駐車場に、敷地面積では当時日本随一の古書店をオープンして業界を驚かせた。

 最初は嫌いだった家業がおもしろくなりかけていた頃でもあって、その後、心機一転、長くお世話になったミナミから、キタへと店舗を移転する。そして、祖父・新一郎が他界して(享年九十八)、名実ともに店を担うことになった頃から、ようやくみずからの才覚を発揮できる環境が整った。天牛といえば祖父がまず頭にくることもなくなって、気持ちの上で弾みがついた。祖父が長生きだったことから、数年後には母親も逝き、ひとつの時代が終わるのだが、それは古書店そのものが変貌をとげる時期にも当たっていた。

 かつて人は、探しものの一冊を手に入れたければ、古本屋の主人を訪ねた。探し当て、それを手渡す、手渡されるときの喜び、店主とお客との人間的な交流、スキンシップがそこにはあった。ところが今は、どこにどんな本があるかはインターネットが教えてくれる時代になって、探して手渡す古本屋の醍醐味は失われた。いまや子供でも欲しい本をネットで探す。その現実を受け入れなければ、業界で生き残れない。アナログ的な環境に親しんできた天牛高志にとって、心情的なこだわりはあるものの、それは措いて、やむを得ない選択をする日がやって来た。

 古本のネット販売化。ウェブサイトの立ち上げが、それでなくても本を読む人口が減少していく時代に生き残る唯一の手段だと、天牛高志は察知し、実行へと移す。祖父・新一郎が建物の軒先を借りて本を並べた時代から、インターネットの画面にずらりと在庫が映し出される時代への変貌ほどに、天牛書店百年の歴史を象徴するものはない。

 到来したIT時代に、人はどう対処すればよいのか。いかにそれと向き合うかが今後は問われることになる。情報伝達の手段が一変したことで、人間の本質的なものまで損なわれるわけにはいかない。幸いにして、本好きであり、且つコンピュータが自在に扱える若い人材が集まってきているという。まさに、天牛書店の新しい時代が始まった。そのことを創業百年の「祝」としたい、と思うのである。